リアルタイムで村西とおるを知っており、当時から彼に嫌悪感しかなかったので、Netflixで全く見る気のなかった「全裸監督」。あまりにも話題なので、昨日イッキ見をした。俳優陣が異様に上手いので、最後まで見られる。ただ一日たって、見終わったあとの感じ、本でいうと読後感があまりよろしくない。こういう感覚は、珍しいので分析してみることにした。
Netflixオリジナル作品を私はよく見る方だと思うけれど、実は日本のものはあまりおもしろいと思ったことがない。あたった作品が悪いのかもしれないし、たいしてみていないからかもしれないが、どうも地上波ドラマの要素に男目線的なエロ?の感じを加えたものが多いような印象がある。なので、「全裸監督」を見ても、「ああ〜、また地上波で放送しにくいエロチックな要素をドラマにくっつけたいつものパターンか……。」というのが、第一印象だった。
同じNetflixで見られるフランス映画に「Je ne suis pas un homme facile(軽い男じゃないのよ)」という、性的役割の男女逆転が見られる秀逸なコメディがある。
監督はEléonore Pourriat。女性。このドラマでは、性的にイニシアティブをとるのは女性というのがデフォルトの設定で、あらゆる場面において、女性が現在の男性のように、男性が女性のように振る舞う。ジェンダーの観点からいっても、どう考えてもこちらが受ける時代であるのは間違いない。
なのに、なぜ今「全裸監督」なのか?
そういうことを考えていると、この時代に「全裸監督」を出してくるというのは、Netflixという世界的な場で、日本がエンタメで全世界に存在感をアピールするための新しく危うい挑戦なのかもしれないとひらめいた。
「全裸監督」中、ストーリー的には最も面白くない(?)6話「誇大妄想」で、外国人のAV女優が撮影後に言い放つ「日本のポルノ業界はかなり遅れている。最低の現場だ。あの作品はマスターベーション。あれじゃ誰も抜けない。」という台詞がある。そうか。これが、キモだ!これまでの、地上波+エロ追加作品のつまらないドラマと違って、この作品はその時代錯誤性(時代遅れ的要素)をバッチリ引き受けているのだと。そして、これこそが「全裸監督」の最大の魅力であると。
例えるならば、「脱プラスチック」の時代に「ポイ捨て」、「脱タバコ」の時代に「副流煙バラマキ」で、「全裸監督」は現在主流の素敵なイデオロギーには「従わない」。
ある意味、こういう態度こそが理性に反する究極のエロであり、「全裸監督」の主題にふさわしいのかもしれない。そして、この「意味不明のムチャクチャ」を視聴者はチャーミングと感じるのか、キモいと感じるのか。
実世界では鼻つまみであろうが、エンタメの世界ではこのめちゃくちゃはおそらく「あり」なのだろう。
ということで、フェミニスト系アラフィフ女としては、「全裸監督」という作品は「息絶え絶えの男性目線的ファンタスムを玉砕覚悟で描く、Me tooの時代には絶対世界基準にはならないムチャクチャさがウリの素敵なエンタメ作品」ではあるが、やはりキモい〜と結論づけたい。
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